ただ、ひたすら
這い上がる人生。
「インスタ・X・ブログでそれぞれ8桁」と聞くと、順調そうに見えるかもしれません。
でも実際は、母を亡くし、新卒1ヵ月で声を失い、0歳の娘を抱えての、泥沼スタートでした。
特別な才能は、何ひとつありません。ただ、ひたすら這い上がってきました。
母と弟と過ごした幼少期。
いつも従兄弟と3人セットでした
生まれは、兵庫県伊丹市です。梅田や三宮のベッドタウンで、伊丹空港がある街です。
長男として、親戚の中では初孫として生まれ、たくさん可愛がってもらった記憶があります。
でも、両親はいつも喧嘩していました。
二人とも、ぼくと弟のことは可愛がってくれました。それでも夫婦としてはうまくいかず、ぼくが4歳、弟が1歳のときに離婚しました。
そこから、母と弟と3人の暮らしが始まりました。
母は保険会社で働いてくれていましたが、母子家庭に余裕はありませんでした。
小学1年生から始めたサッカーでは、友達が新しいモデルのスパイクを履くのを、羨望のまなざしで見ていました。
ぼくが買ってもらうのは、いつも「型落ち」でした。数年前は新しかったけど、いまは安くなった――そんなスパイクです。
この頃、心に決めました。将来は、家族にお金の面で苦労をさせない。欲しいものを、すぐに買ってあげられる自分になる、と。
初めて見た、母の号泣。
少し荒れた中学時代を過ごし、高校で本当にいい友人たちに出会いました。人と深く向き合うこと、人の話を聞くこと、人を笑わせること。いまにつながる大切なことは、すべてあの頃に身につけました。
「横のつながりが広いね」と言ってもらえるのは、あの頃の自分がくれたものです。
そんな高校3年生の、ある日のことです。部活から帰って家でくつろいでいると、母が号泣しながら帰ってきました。
ずっと弱い姿を見せてこなかった、強い母が泣いていました。そして「がんが見つかった」と、教えてくれました。
その夜、塾の帰りに暗い公園のベンチで、ひとり途方に暮れていたのを、いまも覚えています。
その数日後、学校で進路相談がありました。授業料の安い国公立を目指そうと思いましたが、担任から「国公立は今からどれだけ頑張っても、厳しいと思います。」と告げられました。
偏差値50の高校で、予備校に通うお金もありません。それでも母は、がんになってからも働いてくれていました。だから、いまできるベストを尽くそうと思い、関西大学に受かると決めました。
そこから、半年間、毎日12時間以上勉強しました。
神経性胃腸炎になりながら赤本に向き合い、最後までD判定でしたが、奇跡的に合格。
合格通知を一緒に開けたとき、母はぼく以上に泣いて喜んでくれました。「あんた、ほんまに頑張ってたもんね。おめでとう」。
いま思い返しても、いちばん嬉しかった瞬間です。
早すぎる別れと後悔。
大学に入ると、母の体調はどんどん悪化していきました。あんなに強かった母が、信じられないくらい弱っていきました。
お見舞いの前に「何かいる?」と聞くと、最初は大好きだったアイスの「ピノ」を頼まれました。それがやがて「何もいらない」に変わり、最後は「背中さすって」としか、言わなくなりました。
いまも、後悔しています。
母が「もういいから帰り、授業もあるやろ」と言うので、ぼくは数十分で帰っていました。でも、あの頃がいちばん時間があったはずです。
ぼくが1時間しかいなければ、母は残りの23時間を、ひとりで苦しんでいたのに。もっと一緒にいてあげればよかったと、いまでも思います。
最後は祖父母の家で、息を引き取りました。亡くなった直後は、悲しいというより、一周回って「無」でした。
だからぼくは、ときどき発信しています。親孝行は、早く。会えるうちに、会いに行ってほしい。親に会えるのは、当たり前ではないから。
入社1ヵ月目で、話せなくなった。
母との別れをきっかけに、家族を守れる強い大人になろうと、就職活動に本気で取り組みました。
人として成長しようと、東北復興ボランティアにも挑戦しました。
母は生前、「銀行みたいな安定した仕事についてほしい」と言っていたのと、金融の仕事に惹かれたので、銀行に行くことを決意。
最終、メガバンク・地方銀行・信託銀行から内定を勝ち取りました。
もう家族と離れたくなくて、選んだのは転勤のない地方銀行。「絶対に出世する」と意気込んで、入行しました。
でも現実は、残酷でした。入社1ヵ月後の5月、突然、吃音症を発症したのです。
ぼくの場合は、最初の一言が出なくなる「難発」というタイプでした。「お電話ありがとうございます」の「お」が、言えないのです。
新卒1年目は、電話番くらいしか仕事がありません。それなのに、電話が鳴るたびに心臓が跳ね、冷や汗が出て、トイレに逃げ込んでいました。
上司にもOJTの先輩にも、打ち明けられませんでした。「仕事ができない」と思われるのが怖かったからです。出世の道が消えるのが、怖かったからです。
土日には大きな病院に通いました。有名なカウンセラーのもとへも行きました。数十万円する脳の電気治療も、4万円の情報商材も試しました。アメリカに飛ぼうかとまで、思いつめました。
それでも、治りませんでした。
2年半粘りましたが、限界を迎えてメーカーへ転職。しかしそこは残業が月50時間を超える職場で、吃音はさらに悪化しました。3年半働いて、休職することになりました。
0歳の娘を抱えて、背水の陣で。
そこから、このSNSの世界に飛び込んできました。
最初は、ブログでした。当然、すぐに結果は出ません。ジャンルの変更も、3回、4回と繰り返しました。
ブログのジャンル変更は、インスタで言えばアカウントを丸ごと作り直すようなものです。それまでの記事をすべて捨てて、また一から書き直します。それでも書き続けて、記事は450本以上になりました。
0歳の娘がいる状態で、まさに背水の陣でした。伸びない、収益が出ない――そのたびに、何度も心が折れかけました。
それでも泥沼から、這い上がって、這い上がって、続けてきました。
ぼくは、どこにでもいる凡人です。裕福でもなければ、頭がいいわけでもなく、特別な才能もありません。むしろ、もともとのスペックは低いほうだと思っています。
AIやSNSの発信者には、頭のいい方や裕福な方、IT出身の方が多くいます。ぼくは、まったくそうではありません。
だからこそ、人一倍努力する。凡人だからこそ、誰にでも分かる言葉で、身銭を切って伝える。ぼくが心がけてきたのは、それだけです。
選べる明日を、当たり前に。
続けた先で、ようやく理想の働き方に近づくことができました。
いまはインスタで複数のアカウントを育て、インスタ運用講座「NEXTAGE」を運営し、インスタ・X・ブログのそれぞれで8桁を収益化しています。
それでも、何者かになれたわけではありません。まだまだ頑張らなければいけない、ただの一般人です。
そんなぼくを信じて、ついてきてくれる人たちに出会えました。「選べる明日を、当たり前に。」という理念のもとで、講座を運営し、発信を続けています。
もしあなたがいま、発信がうまくいかずに悩んでいても、大丈夫です。すべては、成果の途中です。
ぼく自身、この5年間、何度も心が折れそうになりながら、それでもここまで来ました。
苦しい思いをした人ほど、強くなる。努力で、人は変われる。こんなぼくにもできたので、あなたにもできます。絶対に。
続きは、毎日の更新にて。
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