これまでと、これから。

THE STORY OF YU

ただ、ひたすら
這い上がる人生。

「インスタ・X・ブログでそれぞれ8桁」と聞くと、順調そうに見えるかもしれません。
でも実際は、母を亡くし、新卒1ヵ月で声を失い、0歳の娘を抱えての、泥沼スタートでした。
特別な才能は、何ひとつありません。ただ、ひたすら這い上がってきました。

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01 ORIGIN · 兵庫県・伊丹

母と弟と過ごした幼少期。

家族のアルバムから: 夏祭りの甚平姿、畳の部屋で撮った一枚、車のミラーのプリクラ いつも従兄弟と3人セットでした
家族のアルバムから ― あの頃の記憶。

生まれは、兵庫県伊丹市です。梅田や三宮のベッドタウンで、伊丹空港がある街です。

長男として、親戚の中では初孫として生まれ、たくさん可愛がってもらった記憶があります。

でも、両親はいつも喧嘩していました。

二人とも、ぼくと弟のことは可愛がってくれました。それでも夫婦としてはうまくいかず、ぼくが4歳、弟が1歳のときに離婚しました。

そこから、母と弟と3人の暮らしが始まりました。

母は保険会社で働いてくれていましたが、母子家庭に余裕はありませんでした。

小学1年生から始めたサッカーでは、友達が新しいモデルのスパイクを履くのを、羨望のまなざしで見ていました。

ぼくが買ってもらうのは、いつも「型落ち」でした。数年前は新しかったけど、いまは安くなった――そんなスパイクです。

この頃、心に決めました。将来は、家族にお金の面で苦労をさせない。欲しいものを、すぐに買ってあげられる自分になる、と。

02 THE LOSS · 母との時間

初めて見た、母の号泣。

幼いゆうと母、そしてサッカーに打ち込んだ日々
幼いぼくと、母。そして、サッカーに明け暮れた日々。

少し荒れた中学時代を過ごし、高校で本当にいい友人たちに出会いました。人と深く向き合うこと、人の話を聞くこと、人を笑わせること。いまにつながる大切なことは、すべてあの頃に身につけました。

「横のつながりが広いね」と言ってもらえるのは、あの頃の自分がくれたものです。

そんな高校3年生の、ある日のことです。部活から帰って家でくつろいでいると、母が号泣しながら帰ってきました。

ずっと弱い姿を見せてこなかった、強い母が泣いていました。そして「がんが見つかった」と、教えてくれました。

その夜、塾の帰りに暗い公園のベンチで、ひとり途方に暮れていたのを、いまも覚えています。

その数日後、学校で進路相談がありました。授業料の安い国公立を目指そうと思いましたが、担任から「国公立は今からどれだけ頑張っても、厳しいと思います。」と告げられました。

偏差値50の高校で、予備校に通うお金もありません。それでも母は、がんになってからも働いてくれていました。だから、いまできるベストを尽くそうと思い、関西大学に受かると決めました。

そこから、半年間、毎日12時間以上勉強しました。

神経性胃腸炎になりながら赤本に向き合い、最後までD判定でしたが、奇跡的に合格。

合格通知を一緒に開けたとき、母はぼく以上に泣いて喜んでくれました。「あんた、ほんまに頑張ってたもんね。おめでとう」。

いま思い返しても、いちばん嬉しかった瞬間です。

早すぎる別れと後悔。

関西大学入学式で母と。母が遺してくれた育児記録と直筆のメッセージ
関大の入学式で、母と。そして、母が遺してくれた育児記録。

大学に入ると、母の体調はどんどん悪化していきました。あんなに強かった母が、信じられないくらい弱っていきました。

お見舞いの前に「何かいる?」と聞くと、最初は大好きだったアイスの「ピノ」を頼まれました。それがやがて「何もいらない」に変わり、最後は「背中さすって」としか、言わなくなりました。

いまも、後悔しています。

母が「もういいから帰り、授業もあるやろ」と言うので、ぼくは数十分で帰っていました。でも、あの頃がいちばん時間があったはずです。

ぼくが1時間しかいなければ、母は残りの23時間を、ひとりで苦しんでいたのに。もっと一緒にいてあげればよかったと、いまでも思います。

最後は祖父母の家で、息を引き取りました。亡くなった直後は、悲しいというより、一周回って「無」でした。

だからぼくは、ときどき発信しています。親孝行は、早く。会えるうちに、会いに行ってほしい。親に会えるのは、当たり前ではないから。

03 THE WALL · 銀行員時代

入社1ヵ月目で、話せなくなった。

新社会人時代の同期との写真と、吃音治療で通院した日々
同期との日々。そして、繰り返した通院。

母との別れをきっかけに、家族を守れる強い大人になろうと、就職活動に本気で取り組みました。

人として成長しようと、東北復興ボランティアにも挑戦しました。

母は生前、「銀行みたいな安定した仕事についてほしい」と言っていたのと、金融の仕事に惹かれたので、銀行に行くことを決意。

最終、メガバンク・地方銀行・信託銀行から内定を勝ち取りました。

もう家族と離れたくなくて、選んだのは転勤のない地方銀行。「絶対に出世する」と意気込んで、入行しました。

東北の復興ボランティアで清掃活動をするゆう
学生ボランティアの表紙にもなりました
東北応援チャリティイベントの物販ブースに立つゆう
関西イベントにも参加
東日本大震災の慰霊碑に手を合わせる
本当に、貴重な経験になりました

でも現実は、残酷でした。入社1ヵ月後の5月、突然、吃音症を発症したのです。

ぼくの場合は、最初の一言が出なくなる「難発」というタイプでした。「お電話ありがとうございます」の「お」が、言えないのです。

新卒1年目は、電話番くらいしか仕事がありません。それなのに、電話が鳴るたびに心臓が跳ね、冷や汗が出て、トイレに逃げ込んでいました。

上司にもOJTの先輩にも、打ち明けられませんでした。「仕事ができない」と思われるのが怖かったからです。出世の道が消えるのが、怖かったからです。

土日には大きな病院に通いました。有名なカウンセラーのもとへも行きました。数十万円する脳の電気治療も、4万円の情報商材も試しました。アメリカに飛ぼうかとまで、思いつめました。

それでも、治りませんでした。

2年半粘りましたが、限界を迎えてメーカーへ転職。しかしそこは残業が月50時間を超える職場で、吃音はさらに悪化しました。3年半働いて、休職することになりました。

04 RESTART · SNSへ

0歳の娘を抱えて、背水の陣で。

0歳の娘を抱くゆう。出勤前のスーツ姿、パソコンを触る娘、娘が描いてくれた落書き
背水の陣の日々。隣には、いつも娘がいた。

そこから、このSNSの世界に飛び込んできました。

最初は、ブログでした。当然、すぐに結果は出ません。ジャンルの変更も、3回、4回と繰り返しました。

ブログのジャンル変更は、インスタで言えばアカウントを丸ごと作り直すようなものです。それまでの記事をすべて捨てて、また一から書き直します。それでも書き続けて、記事は450本以上になりました。

0歳の娘がいる状態で、まさに背水の陣でした。伸びない、収益が出ない――そのたびに、何度も心が折れかけました。

それでも泥沼から、這い上がって、這い上がって、続けてきました。

ぼくは、どこにでもいる凡人です。裕福でもなければ、頭がいいわけでもなく、特別な才能もありません。むしろ、もともとのスペックは低いほうだと思っています。

AIやSNSの発信者には、頭のいい方や裕福な方、IT出身の方が多くいます。ぼくは、まったくそうではありません。

だからこそ、人一倍努力する。凡人だからこそ、誰にでも分かる言葉で、身銭を切って伝える。ぼくが心がけてきたのは、それだけです。

05 NOW · 現在進行形

選べる明日を、当たり前に。

Our Belief ― 選べる明日を、当たり前に。お金・時間・働き方・生き方。知識・体験・きっかけを提供し、「選べる人」を増やし続ける。

続けた先で、ようやく理想の働き方に近づくことができました。

いまはインスタで複数のアカウントを育て、インスタ運用講座「NEXTAGE」を運営し、インスタ・X・ブログのそれぞれで8桁を収益化しています。

それでも、何者かになれたわけではありません。まだまだ頑張らなければいけない、ただの一般人です。

そんなぼくを信じて、ついてきてくれる人たちに出会えました。「選べる明日を、当たり前に。」という理念のもとで、講座を運営し、発信を続けています。

もしあなたがいま、発信がうまくいかずに悩んでいても、大丈夫です。すべては、成果の途中です。

ぼく自身、この5年間、何度も心が折れそうになりながら、それでもここまで来ました。

苦しい思いをした人ほど、強くなる。努力で、人は変われる。こんなぼくにもできたので、あなたにもできます。絶対に。

NEXTAGEの受講生・仲間・家族との集合写真

続きは、毎日の更新にて。

子どもたちを抱くゆう
泥沼から、這い上がって、這い上がって。守りたいものが、いつも背中を押してくれた。

続きは、ポッドキャスト『凡人のAI×SNS研究室』とInstagramで、発信しています。
ぜひフォローして見に来てください。

ゆう

関西(大阪)

取材・講演・寄稿・コラボなど、お仕事のご相談をお受けしています。

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